都市は人なり

1698年(元禄11年)、甲州街道・日本橋と高井戸の距離15㎞の間に、それまでなかった「新しい宿場町」=「新宿」が誕生した。 徳川家康の時代に内藤家(高遠藩主/信州の高遠町、新恵那市あたり)が拝領した約21万坪の土地の、屋敷として使っていた場所の一部であったことから「内藤新宿」と呼ばれ、その後、紆余曲折(色町としての色合いが濃く、風紀の乱れなどでたびたび廃止など)はあったが、街道筋の物流・旅人なども多く、繁栄した。

戦後、日本の主要都市は空襲で壊滅。国は特別都市計画法を制定、行政主導による戦災復興事業を推進した。 そんなご時勢に、東京では、地元の民間主導によって計画が進められ、行政が追随する形で支援にまわった特異な例がいくつかある。 「興行街実現」という将来ビジョンを掲げ、その実現を目指した「歌舞伎町」もその一つ、そして、民間主導による戦災復興事業のまちづくり(新宿第一復興土地区画整理組合)を推進したのが鈴木喜兵衛である。
鈴木喜兵衛氏
歌舞伎町は、それまでは角筈北一丁目といわれていた。 敗戦後、疎開先から戻った鈴木喜兵衛氏は、「今、心あるものは自分の事など考えている場合じゃない、商店街や住宅は、土地使用については再編成すべきである。町会は計画復興をする。私らの町では借地権は私が一番多く持っているが、借地権をたくさん持っているものは、納得のいく方法があれば、進んで開放して土地利用を再編すべき」と呼びかけ、また、「東向きに芸能施設をなし、道義的繁華街を建設する」という構想を訴えた。この鈴木喜兵衛氏の構想に、この地域の最大の地主であった峯島茂兵衛が協力を約束したことで、一気に実現性が高まった。また、歌舞伎座の誘致を目指していたことから、新興文化地域にふさわしい町名を、との声が起こり、都で戦災復興に奔走していた石川栄耀都市計画課長が提案した「歌舞伎町」に決まった。そうして昭和23年4月1日、新宿に「歌舞伎町」が誕生した。

鈴木喜兵衛氏の誘致活動によって、歌舞伎を公演する菊座や映画館、演芸場、ダンスホールの建設計画が立てられ、いよいよ着工・建設という段階になり突然の臨時建築等規制と預金封鎖の金融緊急措置令が発動。計画は不可能となり頓挫する。当時、すでに着工されていた地球座(いまのHUMAXの前身)のみが建設を許可され続行された。先に完成した地球座は、その入場者の行列が駅まで続いたという。その後、昭和25年の「東京文化産業博覧会」の開催に歌舞伎町は名乗りを上げ、博覧会のために会場に建設された、いわゆるパビリオンが、今の劇場街の原型となった。

この博覧会で、計画は鈴木喜兵衛氏の意図した方向に進んだものの、博覧会のイベントそのものは大失敗に終わる。私財を投げ売って奔走していた喜兵衛氏は破産状態に陥り、急速に影響力を失っていった鈴木喜兵衛氏に代わってあらたな影響力を発揮したのが藤森作次郎氏(初代の歌舞伎町商店街振興組合理事長)である。 歌舞伎町商店街振興組合と興行4社(東宝、東急レクリエーション、ヒューマックス、東亜興行)がうまく折り合い、昭和30~50年代の歌舞伎町隆盛期を築くことになる。
昭和31年当時、劇場通り一番街に設置された“初代アーチ”。
「新宿娯楽センター歌舞伎町」とある。
昭和31年、東急文化会館が完成、日本最大の映画館「ミラノ座」やアイススケート場「東京スケートリンク」が併設、後に「演歌の殿堂」と呼ばれる新宿コマ劇場もこの年に開業、鈴木喜兵衛氏が夢見た「道義的繁華街」の原型はここに完成した。劇場街を地域の産業構造の中核とし、歌舞伎町は日本有数の繁華街に成長する。一方、歌舞伎町およびその周囲には、売春街が常に存在していたことも事実で、いわば男女の健全な出会いの場としての映画館やスケート場という文化的存在が性風俗産業と拮抗することで、歌舞伎町のポテンシャルを支えてきたという側面がある。劇場街は、昭和50年代から60年代には、年間50億円以上の興行収益を上げていた。
昭和60年、新風営法(以下風適法)が施行。これが歌舞伎町の運命を大きく変えることになる。 風適法施行に伴い、深夜の風俗営業店の営業が規制され、ゲームセンターやディスコ等が一斉にネオンを消すことになる。一方、風適法施行に駆け込んで既得権を得た性風俗店(店舗型個室マッサージ店など)が大量に開店。深夜の賑わいが冷える中、映画館街は次々とオールナイト営業ができなくなり、深夜の経済構造が破壊され、飲食店等の売上も激減。反対に性風俗目的の来街者の比率が高くなり、歌舞伎町の、繁華街としてのバランスに大きな変化を与えた。
昭和59年キャバクラ“新宿キャッツ”誕生。
昭和60年代からのキャバクラブームは、フツウの女子大生が働いているということがウリの「新宿キャッツ」から始まった。平成に入ると無店舗型性風俗店(デリバリーヘルスなど)が増殖、平成10年の風適法改正によって届出制となり、結果として性風俗業が市民権を得る形になった。その後の第二次キャバクラブーム、そして現在に続くホストクラブのバブルへと繋がっていくことになる。

歌舞伎町の名付け親となった石川栄耀が理想とした都市構造は、中心に広場があり、そこに市民が集い、憩い、議論する、民主的市民社会に支えられる西欧型の都市構造だった。例えば、市民による街の清掃も都市計画の一部であると考えていたという。都市の風格というものは、市民の心や行動によって生まれるものであり、そこに集まる人々の生活や姿が、すなわち街の姿であると考えていた。

「都市は人なり」これが石川栄耀の残した言葉である。

(記・寺谷公一)
2006年セントラルロード景観 2015年セントラルロード景観



歌舞伎町略年表

出来事
昭和20年4・5月空襲により全地域焼失
10月復興協力会設立(鈴木喜兵衛会長)、区画整理事業開始
昭和22年12月区画整理事業完成
昭和23年4月4月1日、「歌舞伎町」誕生
7月風俗営業取締法施行
昭和24年4月都電終点大通りから歌舞伎町に移る
歌舞伎町振興会発足(町会と商店会)
昭和25年~6月産業文化博覧会開催
昭和26年1月新宿区役所牛込から歌舞伎町に移る
昭和27年3月西武新宿駅開設
昭和31年12月1日 新宿東急文化会館竣工
28日新宿コマ劇場竣工
協同組合歌舞伎町振興会発足
昭和38年6月歌舞伎町商店街振興組合発足
11月都電杉並線廃止(大正10年8月開設)
昭和39年1月歌舞伎町初の成人式行われる
2月歌舞伎町弁才天初の福豆まき行われる
5月国鉄新宿民衆駅完成
10月東京オリンピック開催
昭和40年10月町内流動人口 午前10時~午後10時15万4千人
昭和42年1月鈴木喜兵衛氏歌舞伎町組合葬
昭和43年7月郵便番号制実施
10月歌舞伎町防犯総決起大会開く
国際反戦デー過激派学生による新宿騒乱事件
昭和44年劇場通り一番街アーチ完成
10月新宿警察署発足(旧淀橋警察署)
昭和45年3月歌舞伎町から都電消える
昭和47年11月町内流動人口 午前10時~午後10時26万人
昭和48年9月サブナード地下商店街・地下駐車場完成
中央通り入り口スクランブル交叉点完成
昭和50年4月新宿消防署発足(旧淀橋消防署)
昭和52年3月西武新宿駅高層ビル誕生(駅改造)
昭和53年7月歌舞伎町が歌舞伎町1丁目に変更
昭和54年3月セントラルロード(旧中央通り)完成
昭和55年10月第一回大新宿区まつり開催
11月アメリカンブルバードオープン
昭和56年8月第一回歌舞伎町ふる里まつり開催
11月町内流動人口 午前10時~午後12時27万人
昭和60年2月新風営法(風適法)施行
昭和62年7月新宿税務署発足(旧淀橋税務署)
8月大久保病院休止(都立健康プラザハイジア建設へ)
平成5年4月都立健康プラザハイジア竣工
6月皇太子ご成婚
平成10年5月改正風適法施行
平成11年1月欧州ユーロ通貨誕生
平成13年4月小泉内閣発足
9月44名の死者を出した歌舞伎町ビル火災事件
平成14年7月第1回新宿エイサーまつり開催
平成16年韓流ブーム到来
平成17年1月歌舞伎町ルネッサンス推進協議会発足
平成18年5月改正風適法施行
11月区役所通りイルミネーション事業スタート
平成20年12月新宿コマ劇場・新宿東宝会館閉館
平成23年3月東日本大震災
4月歌舞伎町臨時派出所改め「安全・安心ステーション」開設
平成25年9月新宿区・公共の場所における客引き行為禁止条例施行
12月劇場通り一番街アーチLED化改修工事完成
平成26年2月歌舞伎町コンシェルジュ委員会発足
12月新宿TOKYU MILANOビル「ミラノ座」閉館
平成27年3月新・セントラルロード(街路灯・シンボル灯ほか)完成
4月新宿東宝ビル・ホテルグレイスリー新宿開業
平成28年3月シネシティ広場整備計画完成予定